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根底的議論/本質的議論をしない日本の大問題のヤバさについて;「WHY」不在の世界

世界のフィルタリングビジネスや偏向報道に負けず、我が国の大切な課題について、皆が真の意味で向き合う事ができる文化の醸成に寄与したいという想いから当サイトを立ち上げました。原発や憲法9条を巡る議論等の国論を二分するようなテーマでは、悉く平行線をたどり、根底的な議論が全く出来ていないと思えてならないのです。

大切なことは、行動原理の説明。ということで当サイトをはじめた目的について、お話していきたいと思います。

それは、世界のフィルタリングビジネスやマスメディアの偏向報道に負けず、我が国の大切な課題について、私たち皆が真の意味で向き合う事ができる文化の醸成に、微力ながら貢献したいという想いからです。

取り急ぎのコンテンツの大部分はこれまで投稿したYouTube動画ですが、動画を始めた目的とも通底しています。

世界のフィルタリングビジネスとコントロールされる情報の脅威

Google、Amazon、SNSや従来型のマスメディアによって私たちが収集する情報のほぼ全てはコントロールされ、場合によっては意図的な情報の隠ぺい、脱漏、改ざんがされているかもしれません。私たちはこれから先の未来、人々が語っている事(その情報源)が、あるいは報道されている事が、実はほとんどの場合、必要な情報が意図的に切り取られて脱漏している情報である事、語る人のポジションによって歪曲されている事、場合によっては必要な情報が隠ぺいされている、あるいは最悪の場合は改ざんされている可能性がある中で、しかもそれがより強力にコントロールできるようになったこのデジタル世界で、自分自身で取捨選択していかなければならない時代に生きているのです。

私たちはメディアという窓を通して世界を眺めています。そこは、窓枠で切り取られ、必要な部分が隠されていたり、巧妙に歪められていたり、あるいは自分自身の思考の偏向によって、ありのままの世界の姿が見えなくなってしまっているかもしれません。

ハイコンテクストな社会

我が国はコンテクストの共有性が非常に高い「ハイコンテクスト」な文化圏として知られています。ちなみにコンテクストの共有度でいえば、我が国は世界で最もハイコンテクストな文化圏であり、その対極に位置するのが米国です(下図参照)。

「コンテクスト」とは日本語で「文脈」と訳されますが、コミュニケーションの基盤となる「言語・共通の知識・体験・価値観・ロジック・嗜好性」等のことで、主に共有時間や共有体験に基づいて形成される傾向が強く、「同じ釜のメシを食った」仲間同士ではツーカーで気持ちが通じ合うことになります。

しかし、その環境が整わないと、今度は一転してコミュニケーションが滞ってしまう傾向にあります。お互いに話の糸口も見つけられず、会話も弾まず、相手の言わんとしていることがつかめなくなってしまうのです。我が国においては、「コミュニケーションの成否は会話ではなく共有するコンテクストの量による」ことと、「話し手の能力よりも聞き手の能力によるところが大きい」とされています(参考:株式会社パンネーションズ・コンサルティング・グループ『ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化』)。

すなわち我が国のコミュニケーションは、言語依存度が非常に低く、言わなくても通じ合う「察しと思いやり」文化が根付いているのです。これは文化的な美しさでもありますが、同時にコンテクストが共有できていない主題になった瞬間に、一転してコミュニケーションがうまくいかない事態に陥ってしまうということでもあります。

High-Context vs Low-Context

根底的な議論をしない

ここで例えば、原発を巡る議論、憲法9条を巡る議論等の国論を二分するようなテーマに目を向けてみると、これらの諸問題に関する諸議論は悉くと言っていいほど、平行線をたどり、何が「望ましい」のかについての根底的な議論に全く達していません。ほとんどの主張は感情的に互いに自分の意見を主張するだけに終始し、その先の発展がないと感じているところであります。

本来、これらの国家のデザインを大きく左右するような大問題を巡る議論については、文化的コンテクスト共有度に依存することなく、立場や主張の違いを超えた幅広い議論が必要です。

しかし、巷で散見される人々のSNSの発信や井戸端会議レベルの会話から、ビジネスシーン、我が国の中枢を担う国会や官僚に至るまで、根底的な「望ましさ」に関する議論をせず、お互いに思考停止した自己目的的な主義主張を行っていると思えてならないのです。これは大変残念な事であり、こうした根底的議論を行わない文化が、実は現代の我が国を取り巻く「閉塞感」の大きな源になっているのではないかと思っています。どう考えたらいいのか自分なりの答えがわからない、モヤモヤした霧がずっとかかっているのです。

もちろん、原発にしろ9条にしろ、それぞれ立場や主義主張がある方々もそれなりにはいますが、実際のところは、おそらく多くの方々が、本当のところどちらが良いのかわからない状態なのではないかと思っています。仮に今国民投票をする事になった場合、きっと多くの方々はどちらに投じたらいいかわからず途方に暮れるのではないでしょうか

ビジネスシーンや学術レベルでも根底的議論をしない?

前の拙作動画/blog(これからの経済成長と正義について)でも少し触れましたが、例えばリベラリズムの本家アメリカでは非常に活発にロールズの研究と批判は進んでいますが、日本ではロールズ自体の研究はされているものの、ロールズを政治哲学として正面から批判する学術的レベルでの試みは一切ありません(Per:『リベラリズムとは何か ロールズと正義の論理』(2007.11)より。新書などの一般的書籍レベルでの論考しかない)。その意味で、例えばリベラリズムなどの代表的な政治哲学について、すなわち社会の「望ましさ」に関する根底的な議論もアカデミズムのレベルでさえ、きっちりできていない可能性があります。

これは我が国の文化は極めて「ハイコンテクスト」である一方で、おそらく教育トレーニングのアプローチは「Applications-first」(帰納的アプローチ)で、それが学問の世界でもその基礎をなしていることが一つの原因だと思っています(下図におけるJapanがApplication firstに属しているというのはErin Meyerではなく、私の解釈)。例えば数学の授業では、初めに公式を与えられ、それを応用する練習を何度も何度もさせられ、その後もし必要があれば背景にある概念や原則を教えられます。一方、ラテンヨーロッパやラテンアメリカの国々の教育は「Principles-first」(演繹的アプローチ)と呼ばれ、数学の授業では、まず初めに一般原則を証明させられ、それを用いて公式を導き出すトレーニングをさせられ、それから様々な問題を解かされます。あるフランス人は「パイ(円周率)を数式の中で使用する前に、パイの値を計算しなければならなかった」と言っていたそうです。

さて、「Application-first」の教育トレーニングを積んだ我が国における多くのビジネスマンは、まず初めに結論をExecutive Summaryや箇条書きにして簡潔に説明してから、その具体的な内容などを話すように指示されます。結論を導き出した背景や概念的説明、調査アプローチなどの説明は、必要があればする程度です。ディスカッションは実務的で具体的なアプローチでなされ、理論的・哲学的な議論はビジネスシーンでは避けられる傾向にあります。

これはおそらく我が国の「Application-first」な教育体系(おそらくアングロサクソン系の教育体系を参考にしている)に深く結びついていると考えられます。まず結果や結論、効果などを説明することが求められ、結果へのコミットが重要視され、その結論の背景や論理構築過程などは軽視される傾向にあります。日本の公認会計士試験の勉強でも、とにかくひたすら簿記や原価計算の問題を練習するところから始まります。会計学は論述よりも計算問題に時間と配点が割かれ、少しでもより素早い正確な計算を行えるよう、右利きの人は電卓を左手で打ち右手でペンを持ち答えを書きこむ修行のようなトレーニングが必要です。ちなみに、我が国(及び米国も)の伝統的な企業会計基準もこの「Application-first」の典型例で、会計基準は既存の実務の世界で一般に公正妥当と目されている会計処理実務を集約したものです。法体系はCivil law(大陸法:演繹的)とされていますが、こうした帰納法と演繹法の折衷的な仕組みが、我が国の複雑で微妙な制度・文化体系を築き上げてきたのだと思料いたします。

さらに、ビジネスシーンにおける文化的な特徴として「Holistic culture」*(Holistic: 個々の物事を個別にではなく、全体として取り扱い、環境や個々の物事が相互依存的に影響しあうことを考慮する事で、Erin Meyerによればアジア圏の組織文化は「Holistic culture」とされ、欧米圏の「Specific culture」と対比されます)である事や封建的な組織文化等が、この根底的議論をしない傾向をさらに強めているのではないかと思っています。すなわちビジネスシーンでは、個々の事柄それ自体よりも他の物事との相互依存関係を重視し、いわゆる「根回し」や「忖度」などと表現されるように、他の部門や他者への影響などを全体として検討しながら合意形成していく傾向があります(ちなみに、こうした根回しによる日本的なディシジョンメイキングは合意形成型と呼ばれ、米国や中国(Erinは中国も日本もいっしょくたにAsiaとして「Holistic culture」だとしていますが、私はさらに大陸と島国とで組織文化は異なると思っています)におけるトップダウンな傾向とは少し異なり、日本も封建的でトップダウンなんですが、一応ポーズとして話は聞くし、関係者に事前に通しておく文化です)。さらに、封建的で上意下達的な文化により、まさに上司の命令を鵜呑みにして、作業に取り掛かるサラリーマンが大量生産されてきたわけです。そしてその時私たちは、その業務を行う背景や理由「WHY」ではなく、如何に効率的かつ正確に当該業務を処理するかの「How to」に集中するのです。

*例えばとある企業のアングロサクソン系の2つの子会社(二つは同じ国にあるが物理的に離れている)で、ある特定の取引について、それぞれ別の会計処理をしていました。現地のビジネス文化では、特定の問題は個々に切り離して判断するので、それぞれ「正しい会計処理」を行った結果、全く別の出来上がりになってしまいました。ところが、グループ親会社である日本の本社及び日本の監査人サイドは、同じ取引に別の会計処理を行っているのはいかがなものか、と問題になりました。予想がつくかもしれませんが、現地法人(及び現地の監査人)からはそれぞれ別の会社だから別の会計処理になっているのでは(自分には関係ないけど)、といった具合の回答です。こうした日本側の反応のように、一つの事象に対して他との整合性や他への影響を考えるという文化が、「Holistic culture」と呼ばれます(Erin Meyer 『The Culture Map: Breaking Through the Individual Boundaries of Global Business』より)。

まとめると、我が国のコミュニケーションは「ハイコンテクスト」である一方、教育・アカデミズム及びビジネスシーンでは「Application-first」な特徴があるため、高いコンテクスト共有性を基礎にしながら、結論や行動にいきなり移ってもビジネスが円滑に回る環境でした(過去形)。また、「Holistic culture」なため、物事を全体的な整合性という観点で考える傾向が強く、一つの判断や結論が他に及ぼす影響を考慮する一方で、個別の具体的な事象について根底的に深く掘り下げて考えない傾向が強いと考えられます。また、封建的組織では、上司の命令を素早く受容し実行することが求められ、その命令の理由や背景ではなく、とにかく業務をいかに正確かつ効率的にこなすかという方法論に集中する事が求められます。

要するに、我が国の人々は、「ハイコンテクスト」な文化と「Application-first」な教育により、実は知らぬ間にズレているのに、コンテクストが共有されていると思い込みながら、根底的議論を避け、とにかく結論と結果にコミットするようにトレーニングされているのです。そしてそれは、ビジネスシーンでも、アカデミズムのレベルでさえも通底してしまっているのだと思料しています。

そして、こうした文化的教育的背景のために、例えば9条や原発等の極めて重要な問題に関して、実は根底的な想い(WHY)の部分がズレていることに気づかぬまま、方法論(HOW)や具体的な手段や結果(WHAT)についての議論に終始しているように思えてならないのです。9条にしろ原発にしろ、そもそも私たちはどんな社会を目指しているのか、「望ましい」社会とはいったい何なのかについて、大変残念なことに我が国は、産業も、学問も、政府も、そして宰相でさえもしっかりとしたビジョンを示せずに突き進んできたのだと思います。

課題感と当サイトを立ち上げた原動力について

我が国を含む現代社会においては、Diversity & Inclusion(社会的包摂)が大きなテーマとなっているように、かつての文化的共有度は大きく低下し、社会を構成する人々が「同質的な人々」から「多様な人々」が拡大していく時代に変化してきています。こうした時代背景から、これからはやはりこうした大切なテーマについて、きっちりとしたファクトベースで「望ましさ」の探求を含む「根底的議論」を行う文化の醸成が喫緊の課題であり、この取り組みなくして、我が国の「閉塞感」の打破と、将来における政治的社会的あるいは経済的な成功はありえないと、非常に強い危機感を持って思っているところでございます。

(ちなみに全然関係ありませんが、「多様性」の拡大は、産業革命期のヨーロッパで、租税の仕組みに「応能原則」を取り入れていった時代の変化を連想させます。これも租税をテーマにそのうち何か書こうと思っています。)

また、冒頭で言及した巨大テックメディアや従来型のマスメディアによる情報のフィルタリング(脱漏や切り取り)や歪曲(最悪の場合、改ざんを伴う)によって引き起こされる不正確な議論も、我が国における根底的な議論をさらに妨げる要因となっているのです。

こうした課題感から、当サイトの立ち上げと、「望ましさ」を考えるYouTubeの動画制作に至ったところであります。もちろん、私の一方的な情報発信だけでは当然議論は進みませんので、双方向的で”本質的な”議論を行うことができる場をデザインしていくことが、次のステップかと思っています。

根底的議論をしないと何がヤバいのか?

前の拙作動画/blogでも触れましたが、社会科学を人類の社会的な「望ましさ」を達成するための学問であるとした場合、その思考順序は、まず何が「望ましい」のかを考えて、それから「望ましさ」をどうやって実現するかを考え、具体的に何をすれば「望ましさ」を実現できるかに至るという一連のプロセスになるはずです。要するに、「WHY:なぜ」、「HOW:どうやって」、「WHAT:何を」すべきかという思考順序であり、根底的議論とはこの「WHY」を探求することだと思っています。

ではこうした根底的議論を行わないとどうなるのでしょうか?同様に前の拙作動画/blogでも触れましたが、現代社会において「新自由主義」が行き詰っている原因と通底するところで、「なぜそれが望ましいのか」が分からない状態で突き進んでいくことになり、「望ましさ」を達成するための方法論(HOW)や手段(WHAT)が目的化し、方向感が失われていくことにあると思っています。

「新自由主義」には、「社会のあるべき姿」や「望ましさ」への問いはありませんでした。望ましい社会状態への問いは保留されたまま、物質的資本主義的な発展を遂げていくことになりました。自生的秩序は自生的であるが故に「良いものだ」とする判断は、その状態が望ましいかどうかについての反省的回路を欠いています。例えば「経済成長しているのだから、新自由主義は望ましいのである(経済成長=望ましい社会状態)」という前提を暗黙のに置いているのですが、そこには「なぜそれが望ましいのか」という思考がありません。経済成長や人類社会の発展と、個々の人々の幸福は必ずしも結び付いていないからです。

では具体的に根底的議論やあるいは本質的議論とはいったい何なのか、どうあるべきなのでしょうか。それについてはまた別途、具体例を検証しながら書いていきたいと思います。

■参考リンク

【参考文献】

  • Erin Meyer 『The Culture Map: Breaking Through the Individual Boundaries of Global Business』